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Mitsutoshi&Tomoko Takesue

伊丹十三をなきものにすること(2)。

IMG_3710京都生まれの伊丹十三は、映画監督である父、伊丹万作が死んだあと、家族で松山に転居、松山東高校で大江健三郎と同級生となり親交を結ぶことになります。なにしろ日本映画の創成期に、チャンバラに風刺と批評的要素を盛り込んだモダニストを父に持った都会っ子です。そんなハイカラが、四国の山奥から出てきた、頭でっかちの文学青年と生涯に渡る親交を持つことになったわけです。ふたりは、まるで自分に欠落した部分を補完し合うように、そして時には対抗しながら寄りそって歩いていました。
後年、伊丹の謎の死のあと、大江は『取り替え子』(チェンジリング)という小説を上梓しています。そこで大江は、ヨーロッパに伝わる伝承で「人間の子供が密かに連れ去られて、その子の代わりに置き去りにされるトロール」に伊丹をなぞらえています。これは、伊丹が持っていた人間的な二面性への言及とも思えるのですが、これまたセルジュ・ゲンスブールの”ゲンズブールorガンズブール(でしったけ?)”に通じる気もするのです。それはさておき、実はそれ以前にも大江は伊丹を念頭に置いた小説を書いていて、ぼくは目下そちらのほうが気になってしかたがないのです。『日常生活の冒険』というタイトルで昭和39年、文藝春秋社刊の単行本390円がその本です。
その本は、こんな書き出しで始まっています。
「あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、長いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かと思えるほど遠い、見知らぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?」
まるで、伊丹の死に先立つこと33年前に、フィクションというかたちで、彼の死を予感したかのようではありませんか。生前と死後、2回にわたって友人の自死を扱うことになるとは、作家とはなかなかタフな職業です。もちろん、ふたつの小説は様子が違っています。『日常生活の冒険』では多感でアナーキーな若き伊丹を描き、『取り替え子』では終わりのない世界へ向けた大江なりの希望を託し、最愛の友人への鎮魂としているように思えます。
そういえば、松山にはもうひと組、お互いに強く刺激し合った表現者がいました。正岡子規と夏目漱石です。短い生涯を激しく燃焼した子規と、近代化のなかでもがく日本とともに苦悩し続けた漱石。つい、前者を伊丹に、そして後者を大江に仮託したくなってしまうのです。

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