CONTINUITY AND CHANGE

脈々と続いていく

Photographs by Koji Maeda,Ryoko Kawahara(Interview)、Mizusaki Hiroshi(Image) Words&Edit by Masafumi Tada

1978年、開業して間もない天神コアに10坪ほどのセレクトショップが誕生した。それから、現在に至るまで主に福岡を拠点としアパレル事業を展開してきた株式会社ギンガムが、ことし40周年を迎える。4月25日に開催された記念パーティには、ビームスの設楽 洋社長、ユナイテッドアローズの重松 理 名誉会長、著名スタイリストなど多くのファッション関係者をはじめ、福岡市長(ビデオメッセージ)、地元企業の代表まで多くの人が、会場となったグランドハイアット福岡に集まった。今回のFEATUREは、株式会社ギンガムの代表・鎌田和彦氏、本サイトに参加するMINOTAURの泉 栄一氏、FUJITOの藤戸 剛氏に、それぞれが通った70年代から90年代を振り返ってもらい、三人の経験を元に福岡のシーンを辿っていく。


ph01 株式会社ギンガム創業40周年記念パーティ時のトークイベント。写真右から2番目が鎌田氏。




CENTRAL_(以下:C)「鎌田さんがファッションに興味を持たれた、きっかけを聞かせてください」

鎌田 さん(以下:鎌)「母が、糸島の前原にアトリエを持ち洋裁をしていまして、そこには日本版がない時代のVOGUEやELLEなどの雑誌が置いてあったので目にしていました。ファッションのページで興味深い写真があると、スタッフクレジットを確認するようになり、スタイリストがアニエス・ベーだったり、クリスチャン・ディオールだったりと、海外で起きていることを雑誌で漠然と見ながら、夢とロマンのある世界だなぁと中学生の頃に思っていました」

藤戸さん(以下:藤)「鎌田さんが中学生ということは60年代ですかね。その頃、日本のメンズは“アイビー”になりますか?」

「そうですね。アイビールックが流行している時代で、日本ではVANやJUNが始まりだした頃でした。僕はヨーロッパの雑誌を見ていたということもあり、ヨーロッパのファッションにも興味をもっていましたが、アイビーが決して嫌いではなかったですし、周りも着だすようになりました。福岡では新天町や川端商店街などにあったタカラヤさんというお店が、VANやJUNを取り扱っていて人気でしたね。でも、これはアメリカから来たものだから、アメリカのファッションがこれなのか、どうかというのも同時に探るようになり、アメリカにブルックス ブラザーズというブランドがあることなどを知っていき、本場や本物にこだわるというわけではないけれども、春日原や西戸崎にあった米軍施設へ行き、兵隊さんに“これを買ってきて”と頼んでいました。ほとんど、買ってきてもらえませんでしたが…(笑)。 それが、中学の後半か高校生くらいの時です」


0303_001 鎌田 氏(写真左)、藤戸 氏(写真右)



「学生時代はどのように過ごされていたんですか?」

「大学は、福岡にある九州産業大学の写真科でした。学校にはほとんど行っていませんでしたが(笑)」

「先輩ですね、学科は違いますが自分もです」

「学生の頃は東京でアルバイトをしていました。ヨーロッパのファッションにも興味があったものの、まったく手の届かない上の世界だなと憧れを持ちながら大学生になり、モードというかディオールだったり、サンローランだったりと、そういうファッションに関わったり、手に入れたりできたらいいなと、強く思うようになったんです。そのためには東京でそういうアルバイトするかしかないと思っていたところ、サンローランの旗艦店ができるということを知り、親に無理を言って、交通費や生活費、服代など少額ではなくて多額のお金を出してもらい、東京でアルバイトしながら2年半くらい過ごしました。サンローランの服を買うとなると高いですからね。親からは“悪魔”って言われていましたよ(笑)」

「福岡の大学に通っていたのに東京でアルバイトというところがすごい(笑) ! ?。でも、憧れのショップで働けるのは嬉しかですよね」

「関係の会社に親戚がいたので、アルバイトできることになったのですが、お店には立たせてもらえなくて、今のように宅急便などがない時代だったので配達係をしていました。俳優さんや女優さん、タレントさんなどが買われたものを届けるという役割だったんですけど、それがまた楽しかったんです」

「それも、貴重な経験ですね! ご自宅まで行くんですよね!?」

「そう、自宅に届けていたので、たまに“ご飯でも”と食事させてもらうこともありましたよ」


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C 「アルバイト以外の東京での思い出があれば聞かせてください」

「キャンティという伝説のレストランがあって、雰囲気だけでも味わいと行っていましたね。まだ、雑誌POPEYEが創刊される前でして(1976年創刊)、その後の制作に関わることとなる編集者やスタイリストなど、さまざま人達が集まるお店だったので、いろんな話を聞かせてもらっていました。そういう中で、音楽評論家の故・今野雄二さんについてまわるようになり、後にユナイテッドアローズを創業する重松さんとも出会うことに。その頃は、重松さんがビームスの店長として店を任せられていた時で、それを見ている感じでした」

C 「雑誌POPEYEの創刊やビームスの創業が1976年で、福岡に天神コアがオープンしたのも同年ですよね」

「そうですね。その頃ですかね、“応援するから福岡でお店をやってみたら”と重松さんをはじめPOPEYEの編集の方などから言われていたのかな。そういう後押しもあって、1978年12月、天神コアに10坪ほどのお店(KSHOP)をオープンさせました。親をはじめ、いろんなところからお金を集めてのスタートでしたね」

「どういうショップだったのですか?」

「今だからこそ言えるけど、“自分がやりたいお店”というわけではなく、その時代なりにマーチャンダイジングして、アメリカの輸入物が売れるという考えのもと、本意ではなかったけれども、アメリカンスタイルのセレクトショップを始めました。輸入した商品だけではなく、東京で遊んでいた時のつながりから重松さんともアメリカに買い付けに行っていましたよ。そして、“応援してくれる”と言われていたようにPOPEYEに掲載してもらえ、雑誌に載りだすと他誌にも取り上げられるようになり、天神コアの隅っこにある店にも関わらず、すごく売れたんですよ。学生上がりで、努力もせずにね。それが、ぼくの人生の間違いの元なんです(笑)」

「当時、セレクトショップは珍しかったでしょうね」

「珍しさもあってか、何もしなくても売れるという、とにかく甘いスタートでした(笑)。それから2年後くらいにKSHOPの上の階に元々したかったヨーロッパのモードを取り扱うお店をオープンさせました。ヨーロッパへ行きコレクションで買い付けをするような、ちゃんとしたセレクトショップを。その後も、けやき通り、今泉、親不孝通り、熊本の路面にも出店していったんです。80年代には海外からの卸も始めようと、パリとロンドンにシッピングとリサーチのオフィスを作ろうと思い、ロンドンには馬場圭助くん、パリには大塚博美さんに行ってもらいました」

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C「その後、90年代に入りビームス福岡をオープンされたのですね」

「コレクションで買い付けてくる、アルマーニやベルサーチなど取り揃えるお店を福岡でやるのは厳しいものがあり、売れてはいたのですが在庫とのバランスが合わず経営が難しく悩んでいました。その時に、海外への買付けなどを共にしていた重松さんより、ビームス福岡オープンの話をもちかけてもらったんです。当時、西通りから入った大名は洋服屋さんもありませんでしたし、二流の立地と言われていましが、その場所で一流のものを売ろうと1991年にスタートしました」

「5階建ての路面店で、最上階にはカフェもあって、佐世保から出てきた自分には驚きでした! あのオレンジの袋が欲しくて行ってましたよ」

「セールの時には、店の前から西通り、西鉄グランドホテルの方まで並びができるほどになりましたからね。その後は、大名周辺にショップが増えていく時期に入り、東京からの出店が多くなる時代になっていきました。ショッピングスタイルやニーズの変化もありましたし、ビームスの展開に想いを残して、自分のお店は全て閉めたんですよ。先ほども話したように最初の甘いスタートがよくなかったんでしょうね(笑)。ただ、学生時代の話もそうですけど “遊びから始まった”。 言葉は悪いようですけど公私混同というのが僕のテーマだったのかなと思いますし、それがいいことでもあったのかなと。経営者にとって、公私混同をいかに成熟させたり、ビジネスにつなげたりすることも、大事ではないかなと思います。それが今につながっているのかな。あと、僕の教育は反面教師なんですよ(笑)。ああいう風にはなりたくないっていうね」


0303_021 インタビュー取材は平尾のtlalliにて



C 「最初、天神コアにオープンした時の思い出など印象に残っていることはありますか?」

「いまは、仲がいいんですけど、隆(りゅう)さんがやっていたSurfer Girlというショップが隣にあったのですが、目も合わさない、口もきかない、犬猿の仲というか、そんな感じでした(笑)。振り返ってみると、本当の意味での良きライバルで切磋琢磨できていたんだなと思います。当時、オーナー同士は、そんな感じだったのですが、Surfer Girlのスタッフだった松下くんと、ウチにいた木下くんは、いつの間にか仲良くなっていまして、一緒にお店(HARRY’S)を始め、後に木下くんもお店(Dice&Dice)を出しました」

「僕らが高校生の時、90年代初め頃から通うようになるお店ですね」


1984年にHARRY’S、1988年にDice&Dice、1992年にTRIPLEXがオープン。ここからは90年代のシーンを見てきた、MINOTAURの泉 栄一さんと、FUJITOの藤戸 剛さんの経験を中心に話を聞かせてもらった。

C 「お二人がファッションに興味を持ったきっかけから聞かせてください」

泉 栄一さん(以下:泉)「18歳 (1989年) でDice&Diceに入りましたが、祖父がテーラーで、叔母が手芸店を営んでいたこともあり、小学校の頃から裁縫をするなど作ることが好きだったので興味は、その時からあったのかな。福岡市内で生まれ、小学校からは久留米でした。当時はロカビリーや古着で、天神の〈はちや〉にはクリームソーダとかがあって。小学校時代の友達のお兄さんやお姉さん世代はチェッカーズのライブに行っているような時代。ロカビリー、デニム、コンバースなどひととおり通り、小学校の頃からスケートボードもしていて、ロンドンのインポートものなど、全般的に興味がありました」

「9歳(1984年)の時、ロス五輪の年なんですけどアメリカの親戚を訪ねた際にNIKEのベロクロスニーカーを買ったり、従兄弟のブレイクダンスを見たりして、アメリカの文化のようなものに触れ、漠然とかっこいいとは思ったけど、それが何かは分からなかったです。自分の意志で買物をして、洋服というものを感じるようになったのは、高校生の頃にスケートボードをはじめ大濠公園で開かれるOUTSIDE主催の大会に行った後、それこそ泉さんのいたDice&Diceや、古着屋のGRINGO、TRIPLEXなどに行き、長崎の佐世保から福岡に出て来だしてからですね」

「鎌田さんがされているとは知りませんでしたが、中3くらいの時には親不孝にあったKSHOPにも行っていました。PORTERやBEAMSのアイテムなどがセレクトされていたのを覚えています」


central_izumi_fujito_029 泉 栄一さん


C 「泉さんは、Dice&Diceがオープンしてから一年後と早くに入られたんですね」

「Dice&Diceを立ち上げられた方々とは、高校生の時にお店ができる前の原型の頃からお客として遊んでもらっていました。福岡の人達はフラットで、年下の自分にも「泉“くん”、今度遊ぼうよ」みたいな感じで、それはKSHOPやHARRY’Sもそうで、若い子を受け入れてくれる海外のような感じでした。そういうのもあって、オープン時から一緒に働きたかったのですが、まだ17歳ということもあり入ったのは一年後。親からは反対されていたので、それを押切り18歳から働き始めました」

「当時、Dice&Diceで買ったアナーキックアジャストメントのTシャツがあったので持ってきてみました」

「このブランドの卸しを始めることもあり、ショップの規模を広げるというタイミングで入社できたんで、本当に感謝でした」

central_izumi_fujito_041 写真内 泉さんの後ろにある、サークルAがプリントされたアナーキックアジャストメントのTシャツ



C「海外への買い付けにも、早くから行かれていたのですか?」

「1990年ごろかな。18歳くらいでクレジットカード渡されて、好きなもの買ってきてと。最初は日本には入っていないナイキやアディダスのスニーカーなどを、東はニューヨークのハーレム、ブロンクスへ、西はロスやサンフランシスコへ探しに行き、レコードなどのファッション以外のカルチャーにも触れました。その後、海外のアーティストと一緒に仕事をするようになり現地で生活を共にすることもありましたし、今でも続いているようなブランドやショップが新しく生まれるのを見る機会も多かったです。当時は、そういう海外で起きていることを持ち帰って伝えるような感じでしたね」


DJ ShadowのFacebookより、1995年のDice&Dice。左から、Futura, 泉さん, DJ Shadow, James Lavelle。



「泉さんの言葉で咀嚼してもらって、海外で起きていることを教えてもらっていましたよ。情報の濃度が高かったですし、ファッションとカルチャーがリンクしていましたもんね」


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C「藤戸さんは、いつ頃、福岡でファッションの仕事を始めたのでしょうか」

「高校生から福岡へ買物に行くようになって、大学2年(1995年)の時、長浜公園の近くにあったVINTAGE KINGにアルバイトで入りました。カッコイイお兄さんたちと一緒に遊んでもらいたいと思って。その頃は、裏原宿、古着、ナイキのスニーカー(現行もヴィンテージも)が流行っていて、雑誌はBoonやASAYANあたりだったかな。大学3年の時、バイト先の人と卸しの会社をはじめ、今ウチ(Directors)で取り扱っている大阪のNECESSARY or UNNECESSARYの九州代理店をしていまして、卒業後に、そのまま就職。それからセレクトショップの店長をさせてもらったりしたあと、独立して今に至ります」


0303_030 VINTAGE KINGで働いている写真など90年代の藤戸さん


C「90年代中頃の福岡の街は、どのような感じでした?」

「街の流れでいうと、親不孝通りの北の方に人の流れがあった時で、大名はビームスを中心に栄えていましたし、ユナイテッドアローズもあって、明治通りを渡ったとこにシップスがあり、大手セレクトショップが路面店として3つありました。ストリートだったり、古着であったりとシーンを感じられるショップは、Dice&Diceのあった今泉や、TRIPLEXのあった長浜公園のまわりで、大名の紺屋町商店街周辺が盛り上がる前夜のような感じでしたね」

「僕は、お店のことが忙しかったのと週5でDJをしていて、その時のことをほとんど覚えていないのですが、北九州や熊本のショップの方達もDice&Diceに来てくださっていたので、いろんな街でお店ができているんだぁと感じていました」


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C「90年代を振り返ってみると、どんな感じでしょうか」

「最初にアルバイトを始めた90年代中頃から今までを振り返ると、福岡らしさがあった時代から、福岡らしさが薄まっていった時代、そしてまた福岡らしさが出てきた時代を見てきた感じですかね。20歳の頃は自分たちでやってみようと、卸しをやったり、ショップを作ったり、セレクトショップの店長を経験させてもらって、2002年に独立させてもらい5,6年は食えてなかったけど、たまたま福岡で続けてきていたところ、2011年に東日本大震災が起き地方に注目がいくようになったという感じです。だから、これから先が大事になってきますよね」

「90年代だけを振り返ると、自分は辛い話もたくさんあるけど、世界中で何かが起ころうとしていたところに縁があって、そこにいることができて、間近に触れさせてもらうことができたのかな。そして、70年代、80年代と前の世代の方々はファッションをしっかりとやってこられていて、90年代はそのファッションをベースにカルチャーを足すような感じになってきたので、時が経てば経つほど、先輩たちに学んできたんだなぁと思いますよね。Dice&Diceのおかげで世代を越えて尊重してもらえることへの感謝もあったので、僕は自分より下の世代の方へオープンに接することもできました」

「泉さんが言うように、脈々と続いていることを伝えたいですよね。そうすると、ファッションの見え方が変わるじゃないですか。いま、ファッションの使い捨て感もありますし」

「歳が離れていて、会社が違っていても、ファッションを通じてのつながりがありますよね。鎌田さんとも食事などしたことなかったですが、今回のパーティに、ご招待して頂けるのも嬉しかったです。具体的に何かしたいですよね。鎌田さんから僕らまでつながってきているから、この記事だけに終わらない何かの形というか。CENTRAL_もそうですけど、福岡は九州をはじめ全国、世界の面白いこと垣根なく受け入れる港口のような感じで、“みんなの街”という感じがします」


90年代について、二人が話していく中で出てきたのは先輩世代とのつながり。突然、ブランドやショップが生まれてくるわけではなく、それまでにはさまざまな過程があり、多くの人々が関わっている。そして、変化していくスタイルやニーズなども折重なり、各世代のシーンができ、街の中でも動きが生じていく。鎌田さんに話を伺った際にも、次につながるヒントとなるような言葉があった。

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「これまでの時代を見てみると、僕がピンチになるくらいまでは、福岡にしかないようなお店、福岡らしいお店が多かったですね。県外の人が福岡に来たら見てまわるような。今は、そういうお店が少なくなって寂しいですけど、時代というのは変わっていくので、またそういう時代がくるかもしれないし」

「いま、僕らがこうやって活動できているのも、明らかに鎌田さんらが入口を作ってきてくれたからだと思います」

「バトンを渡したわけでもなんでもないけど、藤戸くんみたいに福岡でブランドをやっている人がいるというのは希少であり大事なことですよ。そして、東京から福岡へベースを移す方も出てきている中、受け入れ体制のような基盤ができれば、新しい時代が作れそうですね」







鎌田 和彦/Kazuhiko Kamata
1953年生まれ。九州産業大学芸術学部写真映像科在学中に東京のアパレルショップでのアルバイトを始める。それを機に1978 年に天神コアでセレクトショップをオープン。その後『株式会社ギンガム』を設立しアパレルショップを展開。1991年に福岡初となる『BEAMS 福岡』をオープンさせ、現在も『BEAMS 福岡』『BEAMS 博多』など計5店舗を展開する。





泉 栄一/Eiichi Izumi
福岡市生まれ。幼少年期からファッションムーブメントに携わる環境に恵まれ、1989年よりインポートファッションのバイヤー兼ディレクションなどを経験し、2004年に自身のブランド MINOTAUR(ミノトール)を立ち上げる。現在は、MINOTAURのプロデュース、大手企業ブランド、ショップなどのディレクションを手掛ける。http://www.minotaur.co.jp



藤戸 剛/Go Fujito
1975年、長崎県佐世保生まれ。1995年より古着店、セレクトショップにて勤務。2002年、メンズアパレルブランドFUJITOをはじめる。2008年に 直営店Directorsを開店。2014年に合同展示会 thoughtを長崎県波佐見で共同開催する。http://www.wstra.com



撮影協力:tlalliDirectors

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