DAYS_
Mitsutoshi&Tomoko Takesue
歴 史はこれくらいにして、話を「壺屋焼」に戻そう。12世紀ころから琉球には「南蛮焼」といわれるタイやベトナムとの交易の影響を受けた瓦や瓷(かめ)が数 カ所の古窯で生産されていた。そして17世紀になると薩摩から朝鮮陶工を呼び、また中国から「赤絵」の技術も導入して新しい窯場としての「壺屋焼」が誕生 する。琉球王府の官窯なのだが日用品の生産も盛んで広く普及した。しかし、前述のように「琉球処分」が行われると、日本本土からの大量の陶磁器に駆逐さ れ、「やちむん」は次第に姿を消してゆくことになる。その時期に沖縄を訪れたのが柳宗悦、濱田庄司たちだった。”目利きたち”が、この素朴で奔放でありな がら、東南アジア、中国、朝鮮などの記憶を残した稀有な焼き物に瞠目したのも無理はない。おかげで沖縄の陶器は「民芸」の名でヤマトンチュの注目を浴び る。また柳は当時、日本への同化政策の一環として行われていた「琉球の方言撲滅運動」を「他県にこのような運動はない」と、反発している。一見まっとうな 異議申立てだが、そこに琉球を日本の「海外県」と見ているような視線を感じてしまうのは私だけだろうか。陶芸家、大嶺さんが、濱田庄司の話のなかに、幼い ながら感じた「オキナワ」というワードへの違和感の原因も、そこらへんにあったのかもしれない。
大 嶺さんの故郷は、「オキナワ」ではなく「琉球」だ。日本の統治によって「万世一系」という戦時下のスローガンを強要する日本に疑問を持ったとしても不思議 ではない。「やちむん」とは、異文化交流のなかで、ダイナミックな変化を受け入れざるをえなかった「琉球の独自性」の中からこそ生まれたもの。「民芸」と いう日本からの一方的な視線ではなく、もっと自由な「やちむん」に挑戦する大嶺さんの作品に、これからのオキナワに込めた思いを感じる。
オキナワへ行って、琉球をさがす、そのニ。
June 14, 2016 /
古 い中国の書物では「琉球」と呼ばれていた奄美群島から先島諸島を含む長ーいサンゴ礁列島。15世紀に本島の尚真王という人が諸島の勢力を平定し、那覇 の首里に立国したのが「琉球国」だ。その後、国家としての琉球王朝は約450年も続くのだが、その間、アジアの盟主である明に朝貢を続け、その緩やかな支 配圏に入ることで守護されつつ、遠くマラッカから朝鮮、日本までの海洋交易の中継貿易地として栄えた。その後1609年に薩摩藩の侵攻を受けてからも(イ クサ上手の、サツマに短期間で降伏)、中国と日本というふたつの国とのバランスをはかりつつ存続していた(ただし人々は重税に苦しんでいた)。その均衡を 破ったのは明治維新後の1879年に日本が行った「琉球処分」というなんともブッソーな宣告だ。明治政府の狙いは、琉球王国を解体し、日本国に編入するこ とで近代国家(帝国主義)のスタートを切ることだった。それが可能だったのは、当時の中国、清が欧米の侵略を受け、弱体化していたことがあった。ここに驚 くべき史実を発見。日本と清は、当時の前アメリカ大統領グラントを仲介にして、琉球の分割統治案を勝手に協議、なんと調印一歩手前だったというのである (実現していたらいまの沖縄の地図はまるっきり違っていたわけだ)。具体的にはこうだ。日本側は「本島以北を日本」、「宮古・八重山を清の領土」とする2 分割案。清側は「奄美以北を日本」、「本島と周辺は琉球王国として独立」させ、「宮古・八重山を清の領土」とする3分割案である。しかし、結局この問題は 「棚上げ」されることになる(瀕死状態の清は北方からのロシアの脅威に、それどころではなかった)。その後、両国は日清戦争に突入し、1895年の日本の 勝利によって「琉球」の時代は終わり、「オキナワ」という時代が始まることになる(結局、尖閣列島を含めた帰属の問題は棚上げのまま?)。
歴 史はこれくらいにして、話を「壺屋焼」に戻そう。12世紀ころから琉球には「南蛮焼」といわれるタイやベトナムとの交易の影響を受けた瓦や瓷(かめ)が数 カ所の古窯で生産されていた。そして17世紀になると薩摩から朝鮮陶工を呼び、また中国から「赤絵」の技術も導入して新しい窯場としての「壺屋焼」が誕生 する。琉球王府の官窯なのだが日用品の生産も盛んで広く普及した。しかし、前述のように「琉球処分」が行われると、日本本土からの大量の陶磁器に駆逐さ れ、「やちむん」は次第に姿を消してゆくことになる。その時期に沖縄を訪れたのが柳宗悦、濱田庄司たちだった。”目利きたち”が、この素朴で奔放でありな がら、東南アジア、中国、朝鮮などの記憶を残した稀有な焼き物に瞠目したのも無理はない。おかげで沖縄の陶器は「民芸」の名でヤマトンチュの注目を浴び る。また柳は当時、日本への同化政策の一環として行われていた「琉球の方言撲滅運動」を「他県にこのような運動はない」と、反発している。一見まっとうな 異議申立てだが、そこに琉球を日本の「海外県」と見ているような視線を感じてしまうのは私だけだろうか。陶芸家、大嶺さんが、濱田庄司の話のなかに、幼い ながら感じた「オキナワ」というワードへの違和感の原因も、そこらへんにあったのかもしれない。
大 嶺さんの故郷は、「オキナワ」ではなく「琉球」だ。日本の統治によって「万世一系」という戦時下のスローガンを強要する日本に疑問を持ったとしても不思議 ではない。「やちむん」とは、異文化交流のなかで、ダイナミックな変化を受け入れざるをえなかった「琉球の独自性」の中からこそ生まれたもの。「民芸」と いう日本からの一方的な視線ではなく、もっと自由な「やちむん」に挑戦する大嶺さんの作品に、これからのオキナワに込めた思いを感じる。